イシドールの追放後、モスクワ大公ヴァシーリー2世は1448年、ロシア主教会議を招集し、新しい府主教イオナ(1448-1461)を着座させた。その後、ロシア正教会はコンスタンディヌーポリ総主教庁から自治独立権を有するようになった。ただしこの時は、他の正教会から自治独立を承認されてはおらず、事実上の自治独立という形であった。ヴァシーリー2世は幾度もコンスタンディヌーポリ総主教庁にロシア正教会の独立を認めるよう辞を低くして要請していたが、この直後、東ローマ帝国は滅亡し(1453年)、オスマン・トルコの支配下に置かれたコンスタンディヌーポリ総主教庁にはそのような重要な決定を下せるような余裕はなかった。
モスクワ大公国の拡大
1467年、ヴァシーリー2世の長子であるイヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィア(ゾエ・パレオロギナ)を妻として迎え、ローマ帝国の継承者であることを宣言した。
その後、イヴァン3世により、豊かな毛皮を産する後背地を抱えるノヴゴロド(1478年)と貿易の活発であったプスコフが征服された(正式な併合は後年)。同時期、ヤロスラヴリ(1463年)、ロストフ(1474年)、トヴェーリ(1485年)なども次々に併合され、これにより独自の豊富な財源を手に入れたモスクワ大公はルーシ諸公・貴族の中で専制君主として振舞う実力を獲得した。こうした国力を反映し、生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)がモスクワのクレムリン内に建設された。
イヴァン3世は初めて「ツァーリ」(皇帝)の称号を名乗った君主であり、双頭の鷲の紋章がモスクワ大公の紋章に加えられた。
モスクワ大公の征服活動の中でノヴゴロド大主教は明確にモスクワ府主教の下に位置付けられることとなり、カトリック国リトアニアとモスクワの狭間で揺れ動いてきたプスコフの正教会世界への編入がほぼ確定され、大半の東スラヴの正教会世界のヒエラルキーが整理された。
この時代、プスコフ近郊の修道士フィロフェイが、書簡中で「モスクワは第三のローマである」と言及している。モスクワに事実上完全に屈服させられたプスコフ人がこのような文言を述べたのは聊か奇異に映るが、当時、「世界創造紀元」で7000年にあたったのが1492年であり、一種の世紀末的な思想が流布していたことも「第三のローマ論」の背景にあると思われる。コンスタンティノープルの陥落とリトアニアの脅威を前に終末思想を伴った当時のロシアに精神的な緊張があったことは、モスクワによる権力統一への機運が高まったことの背景として指摘されることがある。「モスクワは第三のローマである」という言葉は、東ローマ帝国滅亡後の正教会世界にあって唯一の独立国となったロシアの、正教の守護者としての自負を示すものとして流布していく。
イヴァン3世の後継者であるヴァシーリー3世は征服事業を継続。プスコフ(1510年)、ヴォロク公国(1513年)、リャザン公国(1521年)、ノヴゴロド・セーヴェルスキー公国(1522年)を大公国に編入した。ノヴゴロドとプスコフという、北方に栄えた中世共和政都市は、ここにおいて名実共に解体された。
次のツァーリ:イヴァン4世は、紙と印刷機の導入、常備軍の創設などの近代化を進め、対外戦争(リヴォニア戦争など)を実行するとともに、教会への国家の統制を強めた[12]。イヴァン4世の統治の時代(特に治世後半)は、彼のあだ名となった「雷帝」の語にも象徴されるようにロシアに恐怖政治が吹き荒れた時代であった。後述する所有派の流れを汲むモスクワの府主教聖フィリップは皇帝に対し痛悔[13]を迫り、国家と皇帝を正常化しようと努力したが、最後には絞殺された。
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ヴァシーリー2世以降、大公・ツァーリによるロシア正教会への介入は強まる傾向があったが、15世紀中頃から16世紀初頭にかけて、ロシア正教会の性格に関わる重要な論争が教会において起こっていた。所有派と非所有派の論争である。
荒野修道院運動から出発した修道院群も、時を経て開墾地により豊かになっていたものが多かった。こうした富を積極的に用いて人々を助けるべきだとした人々が所有派である。他方、隠遁者を多数生み出し、清貧を旨とし財産所有に反対した人々が非所有派である。
15世紀中頃から両派の間で論争が活発になったのだが、そもそもこうした富を巡った論争が起きる事自体が、修道院群の「荒野修道院」からの一定の変質を物語るものである。勤勉な修道士達による過去の開墾の成果が豊かな実りをこの時代にもたらしたのも事実であるが、反面、世俗権力と癒着する聖職者層が形成されてきていたのも確かであった。
所有派のリーダー…ヴォロコラムスクの修道院長:聖イオシフ・ヴォロツキイ(1439-1515)
非所有派のリーダー…聖ニル・ソルスキー(1433-1508)、聖マクシモス(1470-1556)
上記のそれぞれの派のリーダーに「聖」という称号が付されていることから判る通り、後代の正教会からはいずれも列聖されており、両派のいずれかが二者択一の結果として現代において正統性を獲得するといったようなことは起きていない。所有派は当時、権力基盤が整備され統一が進んでいたロシアにおいて豊かな財力を活かし、荘厳な奉神礼を整え、西欧の進んだ技術を導入する担い手となり学校教育・社会福祉に力を入れていたと評価され、一方非所有派は、祈りと修道を通した精神的向上により、人々の精神生活をより豊かにしようと働いていたと評価される。両派ともに当時も尊敬される修道士・聖人を生み出していた。
しかしながら当時のロシア正教会は、組織としては両派のバランスを志向せず、基本的に所有派を優先するようになっていった。こうした所有派の姿勢への偏りが後々、16世紀及び17世紀のロシア正教会のさまざまな問題に影を落とすことになる。
なお、両派の対立の時代の中にあっても、精神的遺産が正教会に遺された。イオシフ・ヴォロツキイは当時隆盛していた異端に対する論駁を著した。ニル・ソルスキーはアトス山など数々の聖地を訪れ、ヘシュカスムの神秘的奥義を体得、聖師父の著作を読んでロシアに帰郷し、帰郷後は隠遁所をつくって修道生活を送った。膨大な著作も遺している。