内政においては典型的な開発独裁であった。軍備増強よりも経済基盤の建設を優先した。軍人としては珍しく強い経済マインドを持つ人物だった。クーデター直後、最初に着手したのは農村における高利債整理法(一種の徳政令)であった。
大統領に就任するや、国家主導で産業育成を図るべく、経済開発院を設立した事を皮切りに、財閥や国策企業を通じて、重工業にベトナム参戦により得たカネ、モノを重点的に投入した。これによって作られた代表的なものに、日本の八幡製鐵所をモデルとした浦項製鉄所がある。また「日本経済の急成長の秘密は石油化学にある」として、石油化学工場建設を急がせた。この結果、1961年には国民1人あたりの所得が僅か80ドルだったという世界最貧国圏から、1979年には1620ドルといったように、20年弱で国民所得を約20倍にまで跳ね上げるという「漢江の奇跡」を成し遂げた。工業化にある程度成功したころには農業の遅れが目立つようになり、それを取り戻すべく、農業政策においてはセマウル運動を展開し、農村の近代化を果たした。また、高速道路の建設にも力を入れた。
政治的なスローガンとしては執政期中ごろから標榜した「維新体制」がある。開発独裁と言われる朴正煕の経済政策はソ連の計画経済をモデルにしている。例えば、1962年から始まった数次にわたる五カ年計画方式がそれである。また、朴正煕の経済開発手法が実際に見聞した満州国の経済からヒントを得ているとする分析がある。それまでの輸入代替工業化政策を大胆に輸出型重工業化による経済離陸政策に切り替える柔軟性を見せた[4]。 しかし、国外からは、反共同盟の強化を意図するアメリカ政府・日本政府などを除けば、朴正煕政権は批判的に評されることが多かった。特にセマウル運動については農業近代化であるよりも相互監視を機能させるための農村の強制的な組織化であるとして全体主義的な組織化になぞらえる論考も日本では生まれた。
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