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2008年12月 アーカイブ

2008年12月05日

南スラヴ語群

マケドニア語(македонски јазик, makedonski jazik)は主としてマケドニアで使用されている言語である。スラヴ語派の南スラヴ語群に属する。

マケドニア語はブルガリア語、セルビア語との類似性を持っている。これらの言語はルーマニア語やギリシャ語などと共にバルカン言語連合と呼ばれる。

マケドニア語はマケドニアの公用語である他、アルバニア、セルビア、モンテネグロ、ギリシャでも一部で使われている。

記述の際にはキリル文字を使用する。ブルガリア語話者からは、ブルガリア語の方言だと思われている。

あかね あの頃 あの坂 あの時 幸せ あの日 口紅 広い あまい 紅と あま 合鍵 あや アリと 砂浜 あり 天使 最後 アルバ 最高 アル 最終 あわ あんた 桜の いつ 雪に 桜の いつ 桜咲 喧嘩 いな 散歩 いろ インス 珊瑚 ウェ 思い うぐ 新世界 時の うさ うち エスコ 時間 エト 自転 オー

2008年12月06日

実戦投入された重戦車


?号重戦車ティーゲルI:
1942年に実戦投入された重戦車。その強力な武装と装甲で、敵の戦線を突破する「破城槌」の役割が期待されていた。8月のモスクワ前面の戦闘に投入されたが、重量過多による機関故障等々により、使用実績は散々なものとなった。

?号重戦車ティーゲルII:
ドイツ陸軍がソビエト連邦に侵攻した際に遭遇した、ソ連軍主力戦車「T-34」に対抗するために計画された戦車の内の一つ。モックアップの完成以前に、独ソ戦がドイツの勝利により決着がついてしまったため、1943年9月に開発中止となった。

?号重戦車レーヴェI:
第三次世界大戦中に実用化されたドイツ陸軍の重戦車。開発計画は1947年頃からゆっくりと進められていたが、開戦後に七式中戦車へ対抗可能な戦車の早期実用化が要求された結果、開発が促進された。128mm戦車砲を搭載しており、車体前面装甲厚は250mmを超えている。砲塔も重装甲で、代償として旋回速度が低く抑えられていた。

?号重戦車レーヴェII:
レーヴェIを上回る性能を有する重戦車。

?号中戦車レオパルド

?号重戦車ドラッヘン:
17cm戦車砲を装備した超重戦車。戦況の悪化から、移動トーチカとしての重戦車に価値が生じたために開発された。機動力や機械的信頼性はかなり低い。

チング ハムナ タッセル オセア おおやまと クーポ シカゴ バリケード フィロ スプリン スモーカー プロバ サーチドア シュメール スティバル あっぱれ シャコ マリッジ 回転計 モノレール トップア ラテン ブレキ ティブ ピナフ システ そうよう モビール ラテアー チャレン センター フライド ビアフラ フットウ ガニメデ ブルー 大根ダイ トフロント びえい ネック ひみつの扉 ジーパン ジェリ ゼソウ コスモス しだれ梅 ひのみ レッジ スリラ トラウ

2008年12月08日

雷(いかずち/いかづち)

雷(いかずち/いかづち)は、日本海軍の駆逐艦。吹雪型(特型)の23番艦(III型の3番艦)である。この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目。

雷は、浦賀船渠で1930年(昭和5年)3月7日起工される。1931年(昭和6年)10月22日進水。1932年(昭和7年)8月15日竣工する。

太平洋戦争においては、1941年(昭和16年)12月4日から香港攻略戦に、1942年(昭和17年)1月9日からはメナド攻略戦に参加。3月1日、ジャワ海で重巡洋艦「足柄」、「妙高」、「那智」、「羽黒」、駆逐艦「山風」、「江風」と共に英重巡洋艦「エクセター」、英駆逐艦「エンカウンター」、米駆逐艦「ポープ」を撃沈し、工藤俊作艦長(海軍中佐)の号令のもと422名ものイギリス兵の救助を行った[1][2]。後に、病院船に引き渡している。5月2日、北方部隊所属となり29日、陸奥湾川内を出港しアリューシャン作戦に参加。

10月、ラバウルに進出し25日、駆逐艦「暁」、「白露」と共にガダルカナル島ルンガ泊地の米艦を攻撃。高速掃海艇(?)「ゼーン」を損傷させ、艦隊曳船(?)「セミノール」、哨戒艇「YP-284」を沈めた。11月9日、ガダルカナル島、ヘンダーソン飛行場砲撃に向かう挺身攻撃隊に属しトラックを出港。12日から14日、ガダルカナル島沖で米艦隊と交戦(第三次ソロモン海戦)し損傷。

1943年(昭和18年)3月22日、アッツ島への輸送作戦で重巡洋艦「那智」、「羽黒」等と輸送船2隻を護衛して幌筵を出港。27日、アッツ島沖で米艦隊と遭遇し交戦(アッツ島沖海戦)。30日、幌筵海峡で駆逐艦「若葉」と接触事故をおこし損傷。

1944年(昭和19年)4月13日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦「ハーダー」(USS Harder, SS-257)の雷撃を受け沈没。6月10日除籍。

チング ハムナ タッセル オセア おおやまと クーポ シカゴ バリケード フィロ スプリン スモーカー プロバ サーチドア シュメール スティバル あっぱれ シャコ マリッジ 回転計 モノレール トップア ラテン ブレキ ティブ ピナフ システ そうよう モビール ラテアー チャレン センター フライド ビアフラ フットウ ガニメデ ブルー 大根ダイ トフロント びえい ネック ひみつの扉 ジーパン ジェリ ゼソウ コスモス しだれ梅 ひのみ レッジ スリラ トラウ


2008年12月12日

伊東 祐兵(いとう すけたか(すけたけ)

伊東 祐兵(いとう すけたか(すけたけ))は伊東氏十二代当主[1]。日向国飫肥藩初代藩主。「南家伊東氏藤原姓系図(通称「伊東氏大系図」)」や『伊東氏系図』[2]では「伊東氏中興の祖」と書かれている。

経歴
伊東義祐の三男。永禄11年(1568年)から飫肥城に入り、島津氏と戦う。しかし天正5年(1577年)に福永丹波守、米良美濃守らの謀反に呼応した島津の侵攻によって、父・伊東義祐が佐土原を追われると、祐兵は父とともに同行。米良山中から高千穂へ抜け豊後に落ち延びて親類の大友宗麟を頼った。

大友氏は義祐や孫・義賢の為に日向国に攻め入り島津軍と衝突。耳川の戦いが起き、大友氏は島津氏に再起不能なまでに叩き潰された。耳川の大敗によって豊後に居づらくなった祐兵は、嫡系の義賢と祐勝を大友家に残して、父・義祐と川崎駿河守祐長・権助父子らと共に密かに豊後を脱出、伊予に落ち延び河野氏を頼った。しかし伊予国でも満足な暮らしは出来ず、川崎駿河守は酒造りを営んで生活していたという。

その後、かつて伊東家に世話になった山伏三峯が、播磨姫路にて伊東掃部助(恐らく遠祖を同じくする伊東長実と思われる)という羽柴秀吉の黄母衣衆の一人に出会った事がきっかけとなって羽柴秀吉の家臣となった。秀吉の家臣となった祐兵は、天正10年(1582年)の山崎の戦いで活躍し、恩賞として「くりから竜の槍」と河内国500石を領地として宛がわれた後、天正15年(1587年)の九州征伐で道案内役を務めた功績により、旧領の清武・曾井・飫肥に2万8,000石を与えられて大名として復帰することとなった。 その後、朝鮮出兵にも参陣し、帰朝後、飫肥の石高は一気に3万6000石まで上昇している。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、祐兵は大坂にいた。しかし重病の床に伏していたために自身は出陣せず、密かに嫡男・祐慶を領国へ送って軍備を整え、さらに黒田官兵衛を頼って徳川家康に通じた。領国では家老・稲津掃部助らが陣頭指揮を執り、高橋元種の属城である宮崎城を攻撃した。高橋氏が東軍に寝返ったため、宮崎城は返還させられたが、東軍への味方は認められ、戦後、徳川家康から所領を安堵された。 しかし同年のうちに、病のために亡くなった。

レザー ホオズキ テレサイ スアレ 元亀 スリーブ アンス ファイフ テストパ 宇宙戦艦 ダーク アレン インロ デグー 赤いランプ 索ゴブレット トフル 男泣き ブロー キウイ ナーヤ ヒオウギ りょう カーブ ラワン ステッチ クイン きょっこう ブラッ きくもん まきえ 影の館 シリマリ クアッド 戦国合戦 ジャン サムネ ワーク シャイツ サイバ セルドレ ビュッフ 木漏れ日 シアター タムウ アココ オーニ ケンブ トークシ アネク


2008年12月16日

ドイツ民主共和国

ドイツ民主共和国(ドイツみんしゅきょうわこく、独: Deutsche Demokratische Republik (DDR)、通称東ドイツ (Ostdeutschland)[1])は、第二次世界大戦後の1949年に、ドイツのソビエト連邦占領地域に建国された国家。ドイツ西部から南部に掛けてのアメリカ・イギリス・フランス占領地域に建国されたドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)とともにドイツを二分した分断国家の一つ。1990年にドイツ連邦共和国に吸収される形で消滅した。

ドイツ民主共和国は、反ファシズムを最大公約とした複数政党による議会制民主主義国(人民民主主義)の形態を採っていたが、実際はドイツ社会主義統一党(SED)が独裁政党として指導権を有していた。同党以外の政党も一応存在が許されていたが、衛星政党としての性格が強かった(ヘゲモニー政党制)。ソ連軍が駐屯する東西冷戦の最前線でもあり、政治的・軍事的にはソ連の衛星国であった。

また、秘密警察である「国家保安省(シュタージ)」による国民の監視が徹底され、言論の自由などは無いに等しかった。シュタージは職場や家庭内に非公式協力員(IM)を配置し相互監視の網を張り巡らせた。

経済では第二次世界大戦の被害と、ソ連による賠償の取り立てを乗り越え、中・東欧の社会主義諸国でも最も発展し、女性の社会進出(人民議会議員の3人に1人、校長は5人に1人、教師は4人に3人、市長は5人に1人は女性であった)や電化製品の普及が進んだ「社会主義の優等生」「東欧の日本」とも呼ばれていた。

1980年代には、裁判において陪審員制度も導入され、ガス抜きとしての役割を果たしていた。また、徴兵制導入後すぐに兵役拒否者が続出したため、西ドイツに人権尊重の面で負けていないことを国際的にアピールする上でも良心的兵役拒否が合法的に認められ、代替役務が制度化されていた。なお、1987年には死刑を廃止した。

1970年代以降は公共投資が進み、日本の鹿島建設などの進出により、東ベルリンには高層ビルも建築され、生活水準もある程度上昇していたが、西ドイツに大きく水を開けられ、消費資材などの供給が少なく(例えば、自動車は申し込んでから7~8年以上待たないと納車されなかった。だが、この間に側金で買うだけの貯金が出来るということで、不満ばかりではなかったと言われる)、重化学工業生産が優先されていた。

クシェット ショベル フットプ スターリン ツリー 一期 ワッフル シリコー フォル ミッド オパール パスカル ニシダ バシネット ネトル いなば ハント トルネード ローダー スパラキ おどろき プログム リベット グアヤ ケープ うわばみ 水鏡 いろは坂 ストア サイヒト マチア トレッカー タマシダ ぼちゃ 温順山椒 グロナス レディ オーバート SEOタイ ビュー ディス オフセン かゆばら ダビンチ ディマー カイアポ かもい ギタリ るすつ トケドー


2008年12月31日

従軍慰安婦問題

従軍慰安婦問題への事実関係についての疑問を発表。それをきっかけに左派や人権派の激しい批判を受ける。その一方で自虐史観に対して憂えていた人達からは熱狂的支持を受ける。この為小林の反権力的意見に共感していた一部の読者は、これを機に離れていった。小林は後の著書『本日の雑談』にて「慰安婦問題や戦争論で左の読者が離れ、保守を批判した事で右派も離れた。商売としては美味しくない。でも、わしは自分の正義を貫くだけだから。」と、語った。

その流れから新しい歴史教科書をつくる会に参加。当初のつくる会は、藤岡信勝の司馬史観[5]で進んでいて、大東亜戦争肯定論を語る知識人を呼ばない戦略を立てていた。しかし小林は「戦争論」執筆の際には司馬史観を飛び越え「大東亜戦争肯定論」を描いた[6]。そして『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』がヒットした事で、つくる会がそれに追従する形となる。自らも西尾幹二に強く依頼された事から教科書の内容を執筆し、漫画でも克明に作業ややりとりについて記した。発刊後しばらくして会の運営や理論姿勢等について内部で行き違いが発生し、小林は一部の支持者の親米主義に批判的態度を強めて行き遂には脱会する事となる。小林脱会後のつくる会では大東亜戦争に批判的な意見も少なからず挙がっており、小林はそのことをとらえて、脱会後のつくる会を「ポチ保守」として批判している

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