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伊東 祐兵(いとう すけたか(すけたけ)

伊東 祐兵(いとう すけたか(すけたけ))は伊東氏十二代当主[1]。日向国飫肥藩初代藩主。「南家伊東氏藤原姓系図(通称「伊東氏大系図」)」や『伊東氏系図』[2]では「伊東氏中興の祖」と書かれている。

経歴
伊東義祐の三男。永禄11年(1568年)から飫肥城に入り、島津氏と戦う。しかし天正5年(1577年)に福永丹波守、米良美濃守らの謀反に呼応した島津の侵攻によって、父・伊東義祐が佐土原を追われると、祐兵は父とともに同行。米良山中から高千穂へ抜け豊後に落ち延びて親類の大友宗麟を頼った。

大友氏は義祐や孫・義賢の為に日向国に攻め入り島津軍と衝突。耳川の戦いが起き、大友氏は島津氏に再起不能なまでに叩き潰された。耳川の大敗によって豊後に居づらくなった祐兵は、嫡系の義賢と祐勝を大友家に残して、父・義祐と川崎駿河守祐長・権助父子らと共に密かに豊後を脱出、伊予に落ち延び河野氏を頼った。しかし伊予国でも満足な暮らしは出来ず、川崎駿河守は酒造りを営んで生活していたという。

その後、かつて伊東家に世話になった山伏三峯が、播磨姫路にて伊東掃部助(恐らく遠祖を同じくする伊東長実と思われる)という羽柴秀吉の黄母衣衆の一人に出会った事がきっかけとなって羽柴秀吉の家臣となった。秀吉の家臣となった祐兵は、天正10年(1582年)の山崎の戦いで活躍し、恩賞として「くりから竜の槍」と河内国500石を領地として宛がわれた後、天正15年(1587年)の九州征伐で道案内役を務めた功績により、旧領の清武・曾井・飫肥に2万8,000石を与えられて大名として復帰することとなった。 その後、朝鮮出兵にも参陣し、帰朝後、飫肥の石高は一気に3万6000石まで上昇している。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、祐兵は大坂にいた。しかし重病の床に伏していたために自身は出陣せず、密かに嫡男・祐慶を領国へ送って軍備を整え、さらに黒田官兵衛を頼って徳川家康に通じた。領国では家老・稲津掃部助らが陣頭指揮を執り、高橋元種の属城である宮崎城を攻撃した。高橋氏が東軍に寝返ったため、宮崎城は返還させられたが、東軍への味方は認められ、戦後、徳川家康から所領を安堵された。 しかし同年のうちに、病のために亡くなった。

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2008年12月12日 11:55に投稿されたエントリーのページです。

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